どうせ駄目なら駄目になるまでやる
福島県のいわき湯本温泉には25軒の旅館がある。2014年2月現在、このうち一般客を受け入れているのは10軒に満たない。過半数は福島原発作業員の宿泊施設になっているからだ。「旅館こいと」も2013年4月まで、多いときには90名を受け入れていた。
あの運命の日から2日後の2011年3月13日、同館の総支配人・宗像雄治さんは、社長と女将に呼ばれ「もう終わりだと思う。ごめんなさい」と告げられた。だが、「どうせ駄目なら駄目になるまでやらせてほしい」と訴えた。
通常の営業ができる状態ではなかったが、ロビーには全国からの支援物資が次々に持ち込まれる。地元の消防団員でもある宗像さんは、沿岸での遺体収容作業と掛け持ちで、積まれていく物資を小学校などの避難所へ配って回った。
家族のように迎えられた福島原発の作業員
3月20日、原発作業員の受け入れ要請があった。旅館のスタッフは40名のうち、10名が戻ってきてくれた。料理長も戻る意志を示したが、幼子がいるため避難するよう勧めた。専門の料理担当がいなくなり、宗像さんとスタッフが、毎日、簡単な朝食をつくる。買い出しも行い、午後は全スタッフで夕食づくり。しかし、どんなにきつい作業が続いても、スタッフから笑顔は消えない。いつも明るく前向きな宗像さんが率先して行動しているからだ。原発の作業員は、そんな温かな環境に迎えられ、家族のように生活をともにした。
いわき湯本温泉「旅館こいと」の外観。
2011年夏のある日、宗像さんは自分のもとに全スタッフが集まってくるのを感じ、最悪の事態を覚悟した。きつい作業を理由にした全員揃っての辞職願い……。だがスタッフの代表が手渡したのは寄せ書きだった。メッセージは「心配せず行ってきてください」。宗像さんは、この非常時に抜け出すことはできないと考え、出張研修の誘いを断っていた。それを全員が気に掛けてくれていた。寄せ書きを見て涙が出た。
現在は震災前の3割程度の営業。夕食はつけていない。でも新たな料理担当を迎え入れ、夕食はもちろん宴会も再開したい。笑顔が絶えないスタッフと常に前向きな総支配人は未来を向いている。
受け入れていた作業員の方々は、2年を迎えるタイミングで自社施設へ移るようにと通達があったそうだ。「どうやったら、ここに居ることができるのでしょうか?」と総支配人は聞かれたそうだ。「そんなことを私に聞かれても…」。それはそうだ。これがいわき湯本温泉『旅館こいと』なんだと痛感した。葉っぱ1枚から育てた観葉植物をここに置いていっても良いかと渡された鉢はロビーに飾ってある。
高速道路を下りていわき湯本温泉に向かう右側に「ハワイ」がある。復興のシンボルとして多くのメディアで取り上げられた「ハワイ」がある。なんと宿泊施設まで完備された。要塞のようにも見えた。以前は宿泊施設を持たなかった「ハワイ」と助け合いながらのいわき湯本温泉であった。これから本当の実力が試されることになったが、悲壮感は一切感じなかった。きっと強い信念があるからだろう。