新潟県長岡に生まれる。幼くして父親を亡くし、13歳から時計店で下働きを始めた先蔵は機械技術の腕を磨きながら
「永久運動機械」の研究を始めるも、なかなか成果がでなかった。
仕事仲間に「ちゃんと学を身につけたほうがいいのでは?」と言われ、大学に行くため高等工業学校を受験するが不合格となる。
この頃は高等工業学校に、年齢制限があったため次の年が最後のチャンスだった。
2度目の試験の日は先蔵の運命を変える日となった。
試験当日、極度の緊張から夜明けまで寝つけず寝坊をしてしまった。
走って会場に向かい、会場に着いたのが手元の時計では1分前だったので安心していると、
5分遅刻だと言われ試験を受けることができなかった。
持っていた時計と、試験会場の時刻が違っていた為だった。
この時代の時計は性能が低く人の手でおもりやゼンマイを使い時間の調節をしていたため、時計ごとに微妙に時間のずれがあった。
先蔵は世の中の時計がすべて同じ時刻を示せば、
世の中の役に立つに違いないと考え電池で正確に動く「連続電気時計」の開発に取り組むようになった。
昼は会社で働き、夜は開発に取り組んだ。
23歳の時「連続電気時計」の開発は成功したが、時計に使用されていた液体式電池では
電解液がプラス極の金具を腐食してしまうため取扱いが難しく、冬には凍結して使えない欠点があった。
そこで、乾いた電池はできないだろうかと再び開発に取り組み、
実験を重ね「プラス極の炭素棒をパラフィンでコーティングする」ことにたどり着く。
これによって1885年頃はじめて乾式の電池が出来上がり、
筒型の亜鉛缶を使うことで液漏れもなく、今の乾電池の基本スタイルを確立した。
しかし、資金の無かった先蔵は特許出願することができず、世界初の乾電池の発明者になれなかった。
1888年ドイツのガスナー、デンマークのヘレンセンが乾電池の特許を出願しているが、
先蔵が先覚者であることは世界でも広く認知されている。
この頃、浅草に電池の製造会社「屋井乾電池合資会社」を設立し、電池を売り歩くも全く売れなかった。
なぜなら、電池を使って動かすものが無かったのである。
乾電池を売るために乾電池を使用する懐中電灯を作り一緒に売ることで生計を立てた。
1892年、東京帝国大学理学部がシカゴ万博に地震計を出品し、この地震計に先蔵の乾電池が使用される。
そこで地震計より、乾電池に世界は注目した。
1893年ようやく、乾電池の特許を取得。
日清日露戦争で、小型で寒冷地でも凍結しない屋井乾電池が大いに威力を発揮した。
これを機に、陸軍での全面採用となり会社は発展し先蔵は「乾電池王」と呼ばれるまでになった。
電池の種類
一次電池(使い切り電池) | |
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マンガン電池 | アルカリ電池 |
休ませると回復する性質があるため、アナログ時計のように、電気を少しずつ使い続ける機器や短時間使用するものに適している。 安価で軽く、液漏れもしにくい。災害用の長期保存にも向いている。 残量が少なくなるにつれ、電圧が低下。 使用に向いている機器 リモコン、ラジオ、懐中電灯、時計 |
マンガン電池より容量があり、電圧低下が少ないため大きな電流を使用するものや、連続して使用する機器に適している。 価格が高くて重い。パワーがあり、長持ちする。 液漏れしやすく、電解液が強アルカリ性のため液漏れ時のダメージが大きい。低温に弱い。 使用に向いている機器 オーディオ、デジカメ、携帯充電器 |
二次電池(充電式電池) | |
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ニカド電池 | 鉛蓄電池(なまりちくでんち) |
充電をすると使用できる電池。繰り返し使えるので一次電池より経済的。 大きな電流が必要な機器に向いている。使用しないと自然放電して電気がなくなってしまう。 電池の残量が残っているうちに充電を繰り返すと、本来の充電容量が減少してしまう。(メモリー効果) 最大500回程度の充電に耐えられる。 使用に向いている機器 コードレス電話、電動工具、シェーバー |
歴史が最も古い二次電池。 他の二次電池と比較して、価格が安くコストパフォーマンスがいい。 微小電流~大電流まで放電が安定しているため工場、病院などの非常用電源に使用されている。(メモリー効果なし) 電解液に硫酸を使用するため、破損時の危険が高い。 使用に向いている機器 自動車などのバッテリー |