二コラ・テスラ
わずか5歳で小型水車を作り出した。
幼い頃、雪山に行き雪を丸めて投げると、斜面を転がり雪玉は大きくなりつづけ木をもなぎ倒すほど大きくなったのを見て自然のエネルギーに注目する。
記憶力がよく感覚が鋭敏すぎるせいか興奮したり、強い光を見ると幻覚症状が出ていた。
7つ上の兄が12歳の時に亡くなった事をきっかけに恐怖症にも悩まされる。
多くのマイルールがあり、ホテル住まいをしていたときは3で割り切れる番号の部屋しか泊まらず、 服装はシルクのシャツ、ネクタイ、手袋と決まっていて、1度着たものは捨てていた。
語学も堪能で8か国語、音楽、哲学を好む。オーストリアの工科大学に在学中「グラム発電機」という発電機とモーターの両方の機能を持つ直流機械装置を目にし、 「回転磁界」の原理を思いつく。
回転磁界を生み出すため「交流モーター(二相誘導モーター)」を完成させる。 このモーターを三相以上に発展させて発電機などの関連技術と合わせて作ったのが多相交流システムだった。
28歳の時、交流システムの実用化を進めるためアメリカにわたり、エジソンの下で働く。 仕事を1日18時間以上もするほど仕事熱心であった。
ある日、蒸気船の故障からヒントを得て直流発電機の改良をエジソンに提案。
交流電流に改良が成功したら5万ドルのボーナスを約束したエジソンだったが、本当に完成するとは思っておらず テスラが改良に成功しても「君はアメリカ流のユーモアがわかっていない。」とはねかえした。
直流システムを売り出そうとしていたエジソンは、交流電流は動物を感電させる危険なものと広めた。
一方、テスラは自分の体に100万ボルトの電流を流し放電するショーを開き交流電流の安全を呼びかけた。
その後も、エジソンとは意見が合わず1年ほどで会社を去ってしまう。 独立したテスラは1888年、米国電気工学者協会(AIEE)の招待で発明の発表を行った。
そこでテスラに興味を示した人物が、アメリカの技術者であり実業家のジョージ・ウェスティングハウス(総合電気メーカー・ウェスティングハウス社の創設者)であった。
1887年にテスラは多相交流システムの基本特許を出していたが、ウェスティングハウスはテスラから特許の権利を買い取り、 交流送電システムでエジソンの直流送電システムと対決した。これが「電流戦争」である。
ナイアガラの水力発電所で交流電流発電機が採用され交流電流は世界的に普及。 現在、私たちが使っている電気も交流電流である。
その後テスラの研究は、交流システムから高周波へとシフトしていく。
送電線ではなく、電波によって世界中に情報とエネルギーを供給できないかと考えたためだった。
地球全体の磁場を利用し電気振動と共鳴させることで、空間からエネルギーを無限に得られる仕組みを発明。 高周波・高電圧を発生させる共振変圧器「テスラ・コイル」を開発。
1889年、無線で遠距離に電力を送り、どこでも電化製品を動かせる「世界ワイヤレスシステム」を発表。 (現在のwifiの原型)
情報伝達のシステムとしては成功をおさめたが、無線による電力の送電システムになると 高エネルギーが地球上のどこからでも無限に得られるため、利益を得るために電気エネルギーを供給していた企業や国家と対立してしまい研究が進まなかった。
1900年、テスラの論文がモルガン財閥創始者の目にとまり、資金援助を受けて情報通信と無線送電の実験を行う巨大な無線送電塔「世界システム」の建設を進める。
しかし、グリエルモ・マルコーニが太平洋横断無線通信に成功し、実用化を成し遂げてしまった事とモルガンからの、 資金がストップしてしまい、テスラの研究は途絶えてしまった。
テスラは交流電流やテスラ・コイルの他にもリモコン、蛍光灯、熱伝導、太陽発電、レントゲンなど200以上の発明を残している。
1915年と1930年にエジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となるが、エジソンと同時受賞でなければ賞は渡せないという理由で受賞にはならなかった。
お互いに同時受賞を嫌ったためだと言われている。
生涯独身で、晩年はホテルの一室で過ごし、ミルクとナビスコクラッカーを好んで食べていた。
その後も研究は続けていたが、資金や機会に恵まれず1943年86歳でこの世を去った。
奇抜な実験や時代を先取りしすぎた考えは周りの理解を得られず、マッドサイエンティストのレッテルを貼られ世に名が広まらなかったテスラだが、 磁界における磁束密度の国際単位記号にはT「テスラ」の名前が使われている。
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