あれから11年、今もよみがえる懸命な日々 Scene 51
早期営業再開「地域のため」
福島県南相馬市で建築資材を扱う株式会社スズトヨ。1949年の創業以来、一般家庭から工務店、建築会社まで広いニーズに応える「プロショップ」として地域の暮らしを支える。鈴木清重さんが2代目社長に就任したのは1989年。先代の掲げた信用、奉仕、共存といった社是を受け継ぎながら仕事に打ち込んできた。「ありません」「できません」は決して言わないのがモットー。問い合せに対し、わからなければとことん調べ、自社で取り扱いがなくても何とか取り寄せる。20キロメートル離れた客先にたった1台の自転車でセメントを配達していた父の代から地域に寄り添う姿勢を一貫してきた。
東日本大震災――。社屋と店舗は津波による直接の被害は免れた。しかし津波は200メートルほど先まで迫っていたうえ原発事故も重なり、鈴木さん家族も地域の住民と同様、避難を余儀なくされた。
県西部の会津若松市に身を寄せ2週間ほどたった日、南相馬市に残る近隣の仲間から連絡を受けた。「スズトヨが閉まっていると、資材の調達ができなくて困る」。その一報が、地域貢献を信条としてきた鈴木さんを被災地へ呼び戻した。ブルーシートや消耗品、建築資材がなくては復興作業は進まない。即座に瓦礫の残る南相馬へ戻った。
出勤が可能な従業員は鈴木さんを含めわずか4人。それでも「地域のために」と営業を再開した。自身も被災者でありながら、家屋、道路、橋をはじめ、地域復興に必要となる資材を供給し続けた。全国から届く数々の支援に感謝し尽くせない思いが、「投げ出すな」と背中を押し、懸命な日々を過ごした。あれから11年がたつ今も、当時の状況がまぶたの裏に鮮明によみがえってくるという。
震災後、売上は約8割まで減少。経営は苦しかったが、従業員は1人も解雇しなかった。20年ほど前、赤字経営に陥った時期がある。会社存続のため、人員削減に踏み切ったことは鈴木さんにとって苦い思い出だ。震災で皆が苦しい状況であることはもちろん、もう二度とあんな思いはしたくないという強い気持ちから「この先何が起こるかわからないが、人は残す」と決めていた。それらの努力が報われ、売上は翌年には元の水準まで戻る。その後2〜3年は復興需要もあり倍の売上になった。
2022年現在、市内は落ち着きを取り戻しているが、隣接する地域はいまだに帰還困難区域に指定されていたり、解除されても人が戻ってこなかったりと、ふるさとを追われたままの人は多い。2012年に設置された復興庁主導による〝復旧〞の10年間が経過。本当の意味での〝復興〞への道のりは始まったばかりだ。それでも、特に復興の進んでいない地域の商売仲間が「必要としてくれる人がいる限り」と営業を続けている。その姿を見て、鈴木さんも奮い立つ。
損得に左右される商売の域を超えた地域貢献の精神は次代にも続く。長男の重輝さんが3代目として後を継ぐべく、他社での修行を終えスズトヨに入社した。73歳になる鈴木さんは戦国時代から続く伝統行事の相馬野馬追で初陣出場を目指し練習を始めた。南相馬市、そして福島県全体の明るい未来を信じ、馬上で背筋を伸ばす。
こぼれ話
JR常磐線で仙台から南下すること1時間半。地図を見る限り、車窓から海岸線が見えるくらいの沿岸部を走る地域もあるのかなと思いましたが、実際には高い防潮堤に遮られていました。景観を考えるならきっとない方がいい、でもまた同じような災害が発生する可能性があることを考えるとなくてはならない。地元の方々の葛藤はいかばかりだろうと胸が痛む往路でしたが、笑顔で迎えてくださった鈴木社長に救われました。御年73歳の鈴木社長は、毎朝5kmの散歩と晩酌を欠かさず、70歳までに100回の献血を達成、今年から乗馬の練習を始めるなど、とにもかくにも元気いっぱい!事務所、倉庫、店舗内と動き回るので、朝の散歩を含めると1日に1万歩ほど歩かれるそうです(筆者はせいぜい5,000歩です。見習わなければ)。がむしゃらに働けるのも健康あってこそ。鈴木社長のこのバイタリティが南相馬の復旧作業を加速させた一因なのかもしれないな、と感じました。
帰りのタクシーを事務所で待つ間、「これでも飲んでなよ」と、そっと国民的乳酸ドリンクを差し出してくださいました。きっとこれも、健康の秘訣ですね、社長!
社交的な皮をかぶった人見知りなので、取材のときはいつもドキドキしています。
話し手さんがついぽろっと本音を話してしまうようなインタビューをめざしています!
エネルギー分野、特に次世代の燃料や発電・蓄電技術に興味津々です。
好きな食べ物:生牡蠣(あたっても食べ続けています)。
趣味:オンラインゲーム(休日はもっぱら、光の〇士としてエオ〇ゼアを旅しています)。