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高齢者66人を抱え孤立 Scene 56

避難者も受け入れ奮励

 社会福祉法人旭壽会は宮城県石巻市内3カ所でさまざまな福祉サービス業を運営している。その1つ雄心苑は1997年に雄勝町に建設され、ベッド60床の特別養護老人ホームやデイサービスなどを提供する。地域にとってなくてはならない施設であり、東日本大震災発生当時は地域住民の緊急避難所となったが、なによりも優先したのは入居する高齢者の安全確保だった。施設長の原律子さんは「1人で乗り越えるのは到底不可能でした」と当時を振り返る。
 沿岸に位置する雄勝町は津波で甚大な被害を受けたが、雄心苑は高台に位置していたこともあり、入居者、職員ともに人的被害はなかった。ただ、震源に近いため最大震度は6強を記録し、建物・設備は半壊。ライフラインも止まり、地盤沈下などで主要な道路は重機でがれきを撤去しなければ通行できない状態となった。まさに陸の孤島となり、被災状況に関する情報はラジオからしか入ってこない。この状況が何日続くかわからない中、避難してきた地域住民の受け入れも行った。

 幸いにも地震と火災を想定した避難訓練は年に3回実施しており、地震発生後、職員たちはそれぞれの持ち場で迅速に必要な行動が取れた。しかし地域住民の受け入れは想定外で、対応の仕方やコミュニケーションには苦労した。物資の備蓄にも限りがある。避難してきた人はもちろん、入居者も職員も全員が被災者。その一方で最優先するのは高齢者の命であることを伝え、避難者にも協力を呼びかけた。「戦時中はどのように乗り越えたのだろう」と思いをめぐらせた原さんは、朝夕のオムツ交換の後に換気を行い、ラジオ体操と歌を提案。地域住民にも参加してもらい皆で肩を寄せ合い救助を待った。
 地震発生から6日目、66人を自衛隊のヘリコプターで他県の18の施設へ移送する方針が決まった。安堵する一方「本来最後までお世話をするべき皆さんを他の施設へお願いすることになり、申し訳ない、悔しい」と職員たちは涙を流した。それでもスムーズな引き継ぎができるよう、時間もなくパソコンなども壊れて使えない中、先方施設へ渡す66人分の基本情報を、12時間かけて手書きで懸命にまとめた。防災頭巾に名前を書き、軍手には一人ひとりに宛てたメッセージをマジックで書いた。
 移送の件は、その当日の8日目の朝、66人に伝えた。「勝手なことをするな」と怒られるかなと思ったが、「助けてくれてありがとう」「いつまでも元気で待っているから、必ず迎えに来てほしい」の言葉が胸に響いた。移送を終え、ようやくひと息つけたが、見送った皆が安心して戻れるよう、しっかり再建しなければならないと気を引き締めた。
 復旧工事などには約1年の歳月がかかった。職員はあの日、自身も家族と連絡が取れずにいる中、それぞれができることを探し職務を全うしてくれた。運営再開後、「わざわざ被災地で働くなんて」と家族に反対され、戻れなかった職員もいる。戻った職員は、家も車も流され、それでも雄勝の地で働き続けようとしてくれている。その気持ちに施設長として応えるには、全員が仮設住宅を出て自分の家での暮らしを取り戻すまで、自分がこの雄心苑での役割を続けるのが責務と心に決めた。

 2020年、仮住まいの職員が皆そこを出ることができた。原さんは肩の荷が降りたと感じ、引退も頭をよぎったが、もう少しの間、後任を育成し次の世代にバトンを渡したいと考え直した。そしてそれまで、震災の記憶を風化させないよう語り継いでいきたい。

こぼれ話

 取材に訪れて、事前に聞いていた通り高台に立地していたため、ここなら津波の被害は免れたかなと思う反面、道路の寸断などが発生したら孤立してしまうのでは……とも心配になりました。お話をお伺いすると、実際にそのような事態になったとのことでしたが、職員の皆さんの懸命な対応によりその場にいた方々は無事に過ごすことができました。10年以上経ってから聞くお話でも、ほっと胸を撫でおろしました。
 想像もできない状況のなか避難者の方からは少し辛い言葉も言われたそうですが、非常事態だからこそお互い思いやりをもって行動したいものだなあと感じます。「とにかくやらなくちゃ!」と、避難受け入れ側として奔走した原さんの想いや言葉を、実際にその境遇になったときに思い出したいものです。

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