支えてくれた人たちに報いるため 活気ある復興の姿を示すScene 47
工場停止中も出勤扱いで給与遅配なし
「前を向き歩んでこられたのは、多くの方々の支えがあったから。だからこそ、お客様や地域をはじめ支援してもらったすべての人のために、自分たちが元気に復興している姿を示したい」と株式会社にしき食品(宮城県岩沼市)の常務取締役の富澤貴之さんは語る。2011年3月11日、東日本大震災で被災した当時の従業員数は120人、10年後の現在は300人になった。直近の売上は前年比125%、2020年1月には新設の空港南工場も稼働を始めた。
にしき食品はレトルト食品の専門企業。カレーやシチューを中心として主にOEMで商品供給をしている。最近では自社商品も開発し直売店の展開を始め、今後はその方面にも力を入れていく。法改正で製造元の表記が義務づけられてから「にしき食品」の名を目にする機会は驚くほど増えた。
2020年1月に稼働開始した空港南工場。円内は常務取締役の富澤貴之さん。
東日本大震災では、地震発生後すぐに避難を決断した結果、従業員は全員が津波被害を受けず無事だった。工場や倉庫も1mの高床になっていたため、製造機器に損害はなく商品の一部も無傷だった。自宅の片づけを優先し、車を出せる従業員が出社できる人と乗り合い、まずは泥との格闘が始まった。震災45日後には事業を再開し、可能な限り商品を発送した。所属する工業団地協議会が「地域のことを考えると、早くこの工業団地を復旧させ、仕事ができるようにしないと、地域全体の復興が遅れる」と、迅速なライフラインの復旧を岩沼市役所に依頼し、電気と水道の早期復旧が実現したことも幸いした。
以前は業務用レトルト食品が主流だったが、この震災をきっかけに、より多くの笑顔に近づきたいと消費者向けに舵を切った。それは会社トップ、菊池洋社長の強い意志だった。その掛け声に応じ、全従業員が一丸となり危機を乗り越えていく。新たな取引先を次々に開拓、新しいOEM商品が矢継ぎ早に開発され、供給体制を整えるための工場増設が繰り返された。震災直前に地鎮祭を行い3月14日から着工予定だった岩沼第三工場も廃材に埋もれた状況から翌2012年には完成させている。
従業員は社長の思いになんとしても応えたかった。震災から2カ月間、従業員の生活を守り通すとした社長が、工場停止中も全員を出勤扱いにし、給与の支給を継続してくれた。それに対し自分たちにできることは、精いっぱい取り組む以外にはない。
富澤さんは「社長の行動力と決断力が我々に伝わり自分たちができることを前に進めてきた。それができたのは多くの方々の支援があったからです」と言う。
こぼれ話
にしき食品 新工場の正面玄関
取材先が決まって、あの「にしき食品」さんだと気づいた。「無添加」にこだわり、「保存料」まで加えない。素材の味で勝負するレトルト食品。編集には間に合わなかったが、自社ブランドを「NISHIKIYA KITCHEN」にリブランディングされた。その記念に「究極のレトルト」が発売された。会長のこだわりが詰まった商品だそうだ。
「10年経っても、震災関連の記事には目頭が熱くなる」と原稿確認をお願いしたときの富澤常務のメール。2011年11月に訪れた仙台空港は、震災の跡が残っていた。そのときには事業を再開されていたことにも驚いたが、その後の復興というより、発展には目を見張るものがある。この取材の最後には、「支えてくれた方々への感謝しかないです」と締めくくられた富澤氏の温かさと強さが電話を通して伝わりました。
このシリーズは、日本テクノ社長の馬本英一の一言「どのメディアが報じなくなっても、環境市場新聞だけは現地でがんばる様子を伝えてほしい」から始まった。当初から取材に向かった私は、多くの方々の辛い思い出や立ち向かう強い信念にいつも涙を流してきた。うまく伝わったかは不安であったが、読み返すたびに、ウルウルしている。その後には、全国各地での自然災害が甚大化し頻発したため、東日本大震災だけではないと可能な限りの取材を続けてきた。これからも前を向いて進み続けるお客さまとともに、このシリーズを続けていきたい。
趣味:植物育成、映画鑑賞 人生のテーマ:若作り その他課題:体力
飽き性なのに、好奇心が旺盛で何事もやってみないと気が済まないタイプ。
カップやスプーンなど一式揃えて編集部メンバーに挽き立てのコーヒーを淹れていたが、3日間で終わった。。。