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志田林三郎

志田林三郎1855ねん 佐賀県多久市さがけんたくしまれた林三郎りんざぶろうは、母親ははおや2人ふたりあね父親ちちおやの5にん家庭かていそだち、父親ちちおや学問がくもんこの私塾しじゅくひらいていた。
林三郎りんざぶろうまれて114日目かめ父親ちちおや他界たかい。その母親ははおや着物きもの仕立したてで生計せいけいまかなっていたが、それだけでは生活せいかつくるしく、しばらくして、まんじゅう志田しださん饅頭まんじゅう」をはじめる。
林三郎りんざぶろういえは、佐賀さが唐津からつむす街道沿かいどうぞいにちかく、船着ふなつもあったため「志田しださん饅頭まんじゅう」は繁盛はんじょうし、林三郎りんざぶろう母親ははおや手伝てつだいをしていた。
きゃくあいだ林三郎りんざぶろう代金計算だいきんけいさんはやさと正確せいかくさがうわさとなり、おまんじゅうの代金だいきんをわざとごまかして林三郎りんざぶろう見破みやぶるのをたのしむためにいにるほどの人気にんきであった。

1860ねん 5さい 床屋とこや木下平九郎きのしたへいくろうきとそろばんをおそわり、7さいときには、林三郎りんざぶろうのうわさをいた漢方医かんぽうい尾形惟高おがたこれたか援助えんじょ東原庠舎とうげんしょうしゃ分校ぶんこう上田学舎うえだがくしゃ学問がくもんまなびはじめた。

1866ねん 11さい 東原庠舎とうげんしょうしゃ入学にゅうがく
本格的ほんかくてき勉強べんきょうはじめる年齢ねんれいとしてはおそかったが、身分みぶんひくかったためである。 東原庠舎とうげんしょうしゃ幕末ばくまつ多久郷たくごうんだすぐれた人物じんぶつである、鶴田兄弟つるたきょうだい刑法学者けいほうがくしゃ)や草場船山くさばはいせん漢学かんがくおそわった。

1871ねん 16さい 佐賀藩校弘道館さがはんこうこうどうかん進学しんがく翌年よくとし工学寮こうがくりょう入寮にゅうりょうするため、東京とうきょうむかかう。
1876ねん 21さい 工部省工学寮こうぶしょうこうがくりょう入学にゅうがく
工学寮時代こうがくりょうじだい日本政府にほんせいふたのまれた軍事偵察用ぐんじていさつよう気球実験ききゅうじっけん成功せいこう。 デンマークせんって海底かいていケーブルの修理しゅうり参加さんか

1879ねん 24さい 英国人物理学者えいこくじんぶつりがくしゃW・E・エアトン教授きょうじゅ最新さいしん電気技術でんきぎじゅつまなんで主席しゅせき卒業そつぎょう
政府留学生せいふりゅうがくせいとしてイギリスのグラスゴー大学だいがく留学りゅうがくし、物理学ぶつりがくしゃ大家たいかウィリアム・トムソン(ケルビンきょう)のもとで数学すうがく物理学ぶつりがくまなぶとともに電気でんき実験研究じっけんけんきゅうにもちかられた。
ケルビンきょう志田林三郎しだりんざぶろうのことを、「わたし出会であったかずあるおしなか最優秀さいゆうしゅうおしだった」とかたっている。

留学中りゅうがくちゅう数学上級試験二等賞すうがくじょうきゅうしけんにとうしょう物理上級試験一等賞ぶつりじょうきゅうしけんいっとうしょう、クラス投票最優秀賞とうひょうさいゆうしゅうしょう受賞じゅしょう
独自どくじ実験研究じっけんけんきゅうテーマとしてあたえられた「帯磁率たいじりつ研究けんきゅう」で、大学全体だいがくぜんたい毎年まいとしひとりだけにあたえられる最優秀論文賞さいゆうしゅうろんぶんしょうである「クリーランド金賞きんしょう」を授与じゅよされた。
当時とうじ日本にほんはまだ世界せかいられていないちいさなくにだったが、イギリスの新聞しんぶん優秀ゆうしゅう学生がくせい頂点ちょうてんった日本人にほんじんとして称賛しょうさんした。

1883ねん 27さい イギリスから1ねん留学りゅうがく帰国後きこくご工部大学校電気工学科こうぶだいがっこうでんきこうがくか初代日本人教授しょだいにほんじんきょうじゅ就任しゅうにん
地震観測じしんかんそくため自動電流計じどうでんりゅうけい開発かいはつし、釜山ぷさんから長崎ながさき長崎ながさきから佐賀間さがかん電信線でんしんせん使つかって地震観測じしんかんそくおこなった。
論文ろんぶんには1885ねん一年間いちねんかん記録きろくのこっているが、観測中かんそくちゅうおおきな地震じしんきていない。

1885~6ねん 隅田川すみだがわにて、みず性質せいしつ利用りようした世界初せかいはつ遠隔地無線通信えんかくちむせんつうしん実験じっけんおこなった。これはマルコーニの無線実験むせんじっけんより9年前ねんまえおこなわれたものでたか評価ひょうかされている。

1886ねん 30さい 逓信省技官ていしんしょうぎかんとして、電信電話事業でんしんでんわじぎょうにかかわるとともに帝国大学ていこくだいがくいま東京大学とうきょうだいがく)の教授きょうじゅ就任しゅうにん
1888ねん 32さい 日本にほん第一号だいいちごう工学博士号こうがくはくしごうとなる。
5がつ逓信大臣ていしんだいじん 榎本武揚えのもとたけあき会長かいちょうえて、「電気学会でんきがっかい」を設立せつりつした。

6がつ25にち京橋西紺屋町きょうばしにしこんやまち地学協力会館ちがくきょうりょくかいかんで、電気学会でんきがっかい演説えんぜつおこなった。
この演説えんぜつあたらしい学会がっかい組織そしき運営うんえいかたと、電気化学でんきかがく技術ぎじゅつかんする歴史れきし学術面がくじゅつめんアンペールファラデー、ケルビン、マクスウェル、エルステッドとう業績ぎょうせき技術面ぎじゅつめんエジソン、ベル、シーメンス、モールスとう貢献こうけんただしく評価ひょうか)と現状げんじょうをまとめたもので、 その内容ないよう現在げんざいから100年以上ねんいじょうまえの「電波でんぱ」という言葉ことばがない時代じだい将来可能しょうらいかのうとなる、電気技術でんきぎじゅつ予測よそくをたてたこと伝説でんせつになっている。

 演説えんぜつ発表はっぴょうした内容ないよう

  • 1:電線でんせんによって同時どうじ通信つうしんおくったり、うけることができる。
  • 2:電線でんせん使つかわずにとおうみえて自由じゆう通信つうしん電話でんわができる。
  • 3:磁気じき操作そうさによってひかり輸送ゆそうし、とおくにひとかおわせることができる。
  • 4:音声おんせいつたえることはさらに進歩しんぽし、外国がいこくにおける演奏えんそううた日本にほんにいながらくことができる。
  • 5:水力すいりょく利用りようして電気でんきえれば、夜通よどお電気でんきまちあかるくすることもできる。
  • 6:電気でんきによってうご鉄道てつどうふね飛行船ひこうせんなどがまれて、それらを使つかかける時代じだいになる。
  • 7:はなし演奏えんそうなどすべての音声おんせい機械きかい記録きろくできる方法ほうほう発明はつめいされる。
  • 8:地中ちちゅう空中くうちゅう変動へんどう電気でんき観測かんそくし、地震じしんまえもって予知よちできる発明はつめい食物しょくもつ出来栄できばえも予知よちできる発明はつめいまれるかもしれない。

1890ねん 官学両面かんがくりょうめんにわたる活躍かつやくささえてきた榎本武揚逓信大臣えのもとたけあき前島密まえじまひそか逓信次官ていしんじかん辞職じしょくし、 わりに後藤象次郎ごとうしょうじろう就任しゅうにんした。
林三郎りんさぶろうしょくをはずされてしまい、抗議こうぎのストライキをしようとするも事前じぜんにばれて失敗しっぱいわった。 翌年よくとしには、帝国大学ていこくだいがく教授きょうじゅ辞職じしょくした。

1891ねん 35さい 1月国会議事堂がつこっかいぎじどう火災かさい発生はっせい
原因げんいん電灯でんとうとされ電気学会幹事でんきがっかいかんじである林三郎りんざぶろう責任せきにんわれてしまい、 電気事業でんきじぎょうたいする誤解ごかい警戒心けいかいしんくために奔走ほんそうした。
当時電灯とうじでんとう普及ふきゅうはじめたばかりで、各地かくち停電ていでん事故じこ発生はっせいしていたが、電気技術者でんきぎじゅつしゃ決定的けっていてき不足ふそくしていたため、林三郎りんざぶろう修理現場しゅうりげんば指揮しきをすることもあった。

このとしなつあたりから林三郎りんざぶろう体力たいりょく急速きゅうそく低下ていかはじ翌年よくとしの1892ねん1がつ死去しきょした。

1993ねん 林三郎りんざぶろう没後ぼつご100ねん記念きねんして、総務省そうむしょうは「志田林三郎賞しだりんざぶろうしょう」を創設そうせつした。
先端的せんたんてき独創的どくそうてき研究けんきゅうによって情報通信じょうほうつうしん発展はってん貢献こうけんした個人こじんおくられ、毎年まいとし6がつ1たちの「電気でんき」に表彰ひょうしょうされる。

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