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  • 東日本大震災から復興への歩みをみせる被災地の企業や日本テクノの取り組み

日本を照らす復興の象徴Scene 35

 東京から福島を経由し宮城へつながる常磐線。東日本大震災から7年たつが、現在も富岡ー浪江間は運休しており、被害の大きさがうかがえる。株式会社 エースパッケージ・仙台工場は運休区間より北の宮城県亘理町荒浜に工場を構え、その周辺も震度6の揺れを観測した。同社は中元、歳暮、季節ごとのイベントなどに使うギフト用の段ボールを製造している。

使命は「つくり続けること」

いち早く工場を立て直し、復興の象徴的存在に。


 震災当日、大きな揺れを感じた専務取締役の潮栄次さんはすぐに製造機器を停止し、従業員を近くの学校へ避難させた。自宅も気がかりだが、責任者として工場に残った。「荒浜地区の中で、唯一この地域だけ津波が到達しませんでした。学校に避難できないお年寄りや幼い子らを優先して事務所に受け入れ、総勢30人で2晩過ごしたんです」。床に商材の段ボールを敷き底冷えを防ぎ、プロパンガスを使いファンヒーターから暖をとった。地域住民の協力のもと炊き出しもした。
 3日後に工場を片づけてみると重さ1トンもの段ボール原紙が倒れ、20t以上の製造機は30cmほどもずれていた。その光景に改めて地震の脅威を感じたという。電気・ガスのほか電話の不通も不安をあおる。5台の携帯電話をかけ続け、埼玉の本社に従業員の無事を伝えられたのは2日後だった。
 10日後に電気が復旧し生産活動を始められた。しばらくは電話回線が不安定だったため、取引先とはメールでやり取りし、伝票が必要な際は車で1時間かかるコンビニエンスストアのFAXを使った。とはいえ売上は震災前から半減していた。潮さんは「必要とする人が1人でもいる限りつくり続けるのが使命と思い、お客様のため工場を稼働しました」と話す。

専務取締役の潮栄次さん

 その思いが通じ、従業員全員の取り組みも実を結んで、5月後半には以前と同様の受注数を確保できた。地域の中でもいち早く工場の立て直しが図れた同社は、事業活動を通じ、この被災地が元気でいることを全国に発信してくれた。復興の象徴的存在として、日本を明るく照らしてくれた。
こぼれ話

震災後しばらく電話がつながらず、本社では「もう仙台工場はダメかもしれない」と諦めの声も挙がっていたといいます。潮さんが電話をかけ続けた結果、偶然にも2日後の夜中2:00に社長につながりました。そのときの社長の安堵したお気持ちは計り知れないもので、同時に潮さんもこれまで背負っていた肩の荷が下りたのではないかと思います。同社は不便な状態のなかであっても、お客さまのために工場を稼働させてきた力強い企業。これからも応援しています。

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