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  • 東日本大震災から復興への歩みをみせる被災地の企業や日本テクノの取り組み

創業の地を離れ新天地へ Scene 55

営業形態は変わっても もてなしの心はそのまま

 野坂屋旅館 別邸 わんこ日和は熊本県芦北町にある。湯浦川沿いにたたずむ全5室のアットホームな宿だ。低張性のやわらかな温泉と不知火海の海の幸を生かした食事、そして愛犬と泊まれることが特長。代表取締役の田中正一さんは、元々は北に約3キロメートル離れたところにある「野坂屋旅館」を経営していた。先祖から受け継いだ旅館は、令和2年7月豪雨で甚大な被害を受け、142年の長い歴史に幕を下ろした。


 「別邸わんこ日和」は、創業の地を離れた再出発の地だ。
 「大雨の直後は目の前の対応に手一杯で、再開のことなど口にする余裕は、とてもじゃないがありませんでした」と当時を振り返り田中さんが語る。旅館を継いで30年。できないことは言わない、言ったことは必ず守るという信念を貫いてきた田中さんにとって、豪雨は再起を誓う言葉を奪うほどの喪失感をもたらした。
 床上125センチメートルまで浸水し、調理設備や車両はすべて修理不可能に。室内は泥にまみれ、畳もすべて傷んでしまった。近隣も軒並み床上浸水したため、旅館の2階を避難場所として開放した。
 かねてからSNSやブログを活用していたこともあり、田中さんは自然と地域の情報発信の中心的存在になった。送られてくる支援物資も旅館に集まり、地域住民に分配する役割を担った。だが、7月末に更新を再開した自身のブログには、事業再開に向けた言葉は見当たらない。
 野坂屋旅館は明治、大正、昭和、平成の各時代の需要に合わせて業態を変え、営みを続けてきた。当初の薩摩街道沿いの旅人を迎える旅籠は、やがて高度経済成長を支える下宿となり、さらに地域の冠婚葬祭の宴席を主とする地域密着型経営にシフトした。
 だが最近は地域の人口減少で宴席も減り、限界を感じていた。2020年からのコロナ禍がそれに追い打ちをかけ、経営状況はさらに厳しくなる。補助金の申請も検討したが、新たに借入金を増やすことを嫌った田中さんは、あえてその時期に借入金を減らすことに集中した。結果、抵当権を抹消するに至り、無借金経営を実現。新しい取り組みにも手を広げやすくなる、と希望を抱いた矢先の水害だった。
 暗中模索の状態だったが、新事業の参考にしてはどうかと知人から紹介された「愛犬と泊まれる宿」での体験が転機となる。この業態は全国的に需要が高まっているが、九州エリアではまだ数が少ない。市場に参入余地があるうえ、田中さんには、先代が「いつか温泉旅館を」と夢を抱いて購入した別の土地が残されていた。「湯浦温泉は観光地とはいえないが、愛犬と泊まれる〝温泉宿〞なら一点特化できると光明を得ました」。
 2023年1月28日に新規開業したばかりの宿だが、すでに宿泊客からのリピート予約も入っている。かつては100〜200人規模の宴席に対応していたが、ここでは大きく路線を変更し、現在は1日5組に限定。一人ひとりに丁寧に向き合う接客を心がける。営業形態は変わっても、もてなしの心は昔のままだ。
 「ドッグファーストを掲げつつ、人間も快適に過ごせる空間を目指しています」と語るように、床材やファブリック類は爪がひっかかりにくく、掃除がしやすく、かつ肌ざわりや座り心地のよいものを採用。全室に人間用・愛犬用の露天風呂が備え付けられている。
 まずは西日本でメジャーな存在になることが目標。水害を乗り越え、還暦を迎えての新たな挑戦が始まっている。

こぼれ話

 温泉旅館の経営はお祖父さまの代からの夢だったということで、お父さまの代のときに湯浦温泉に土地を購入したそうです。ところが、ボウリング工事を行い温泉が出るところまで確認したものの、工事担当者の急逝により、申請が途中で停止。田中社長の代になり、あらためてボウリング工事からやり直しました。大変だったよ、と当時の苦労をお話しくださいましたが、無事にオープンしお客さまを迎える旅館を見渡す田中社長の表情からは、そんな苦労も吹き飛ぶほどの充実感が伝わってきました。
 ドッグファーストを掲げるお宿は、何よりも愛犬(わんこ)と快適に過ごすことを重視して設計されています。床には段差やひっかかりがないので、バリアフリー設計にもなっており、老若男女+わんこがくつろげる空間が広がっていました。全室に露天風呂が付いているのですが、それにくわえてわんこ用の露天風呂まであるなんて、全国を探してもなかなか見つからないのでは…!?
 お食事処も、もちろん同伴可能!わんこが一緒に食卓につけるよう、備え付けの椅子の1つはひじつきになっており、卓に寄せればわんこが落ちない安心のつくりです。大型のわんこのためには、リードフックが備え付けられている特別仕様。館内どこでも一緒に過ごせます。
 田中社長のお名刺を裏返すと書かれている「家族と過ごせる温泉旅籠」のメッセージには、「家族」に「わんこ」のルビが。単なるペットではなく家族の一員として捉える強い信念が感じられました。地元・不知火湾でとれる海の幸を中心に、お食事の質にもこだわっているとのこと。実食レポートしたいところですが、残念ながら帰りの飛行機の時間が迫っており断念。そのおいしさは愛犬家の皆さまがぜひ現地でご体感ください!

ご馳走が並べられる食卓に愛犬と一緒に!
お部屋は5室すべてで異なるコンセプトのデザインです



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